
お馴染みの、ベトナムを表す漢字一文字「越」。
しかし、この一文字が単なる略称ではなく、その背景に壮大な歴史が広がっていることをご存知でしょうか。そこには、古代中国から続く民族の物語と、19世紀に大国・清との外交的な駆け引きの末に国号「越南」が誕生した、知られざる逸話が秘められています。
さらに、現代のベトナムでは漢字が使われないにも関わらず、私たちの使う日本語と驚くほど似た発音の言葉が今もなお数多く残っているのです。
この記事では、そんな「越」という漢字一文字を糸口に、ベトナムという国の成り立ちから現代文化、そして日本との意外な共通点に至るまで、その奥深い関係性を分かりやすく解説していきます。
記事のポイント
- ベトナムを表す漢字一文字とその意味
- 国名「越南」の歴史的な由来
- 現代ベトナムにおける漢字の立ち位置
- 日本語と関連するベトナムの言葉
ベトナムを漢字一文字で表す「越」とその由来
- ベトナムを表す漢字はずばり「越」
- 国名の正式な漢字表記は「越南」
- なぜ「越南」という国号になったのか
- 「越」が使われる熟語の具体例
- ベトナム主要都市の漢字表記一覧
ベトナムを表す漢字はずばり「越」

ベトナムを漢字一文字で表す場合、「越」という字が用いられます。これは、ベトナムの公式な略称として、特に日本の新聞や公式な文書で広く使用されており、メディアでも頻繁に目にする表現です。
例えば、ニュースの見出しなどで簡潔に伝えるため、日本の首相がベトナムを訪問する際は「首相が訪越」と報道されます。また、二国間の関係性を示す文脈では「中越関係」や「日越貿易」のように記されることもあります。
このように、一文字で国を示す表現が定着していることは、単なる便宜上の略称というだけでなく、日本とベトナムが歴史的・文化的に深い関係を築いてきたことの一つの証しと考えることができます。
ただ、近年ではグローバル化が進み、日常会話ではカタカナで「ベトナム」と表記するのが主流となったため、若い世代を中心にこの漢字一文字での略称に馴染みがない人も増えているようです。
国名の正式な漢字表記は「越南」
ベトナムという国名を漢字で正式に表記すると「越南」となります。
この表記は、ベトナム語の国名である「Việt Nam」に由来するものです。「Việt」が民族名を表す「越」に、「Nam」が方角を示す「南」に、それぞれ対応しています。つまり、「越南」とは文字通り「南方の越(ヴィエット)の国」という意味を持っているのです。
日本語の音読みでは「エツナン」となりますが、これは漢字文化圏における歴史的なつながりを示すものであり、ベトナム語の実際の発音とは異なります。 このように、単に音を借りただけの「当て字」(例えばアメリカを「亜米利加」と書くような表記)とは根本的に異なり、この二つの漢字には民族のアイデンティティと地理的な位置が明確に示されています。
そして、この「越南」という国名がどのようにして決まったのか、その背景には国の成り立ちに関わる重要な歴史が隠されているのです。
なぜ「越南」という国号になったのか

「越南」という国号が1804年に正式に誕生した背景には、19世紀初頭の東アジアにおける国際関係と歴史的な経緯が深く関わっています。
当時、ベトナムを統一した最後の王朝である阮(グエン)王朝の初代皇帝は、清朝の皇帝に対し、新しい国名を「南越」とすることを願い出ました。
この「南越」という名称には、かつて中国南部からベトナム北部にまたがって存在した古代国家「南越国」の栄光を継承したいという、新王朝としての自負が込められていたと考えられます。
しかし、清王朝はこの提案を認めませんでした。その理由は、「南越」という名前が、かつて自国の領土であった広東省や広西チワン族自治区の一部をも含んでいた歴史的な国家を指すため、阮王朝に領土的な野心があるのではないかと警戒したためです。
そこで、外交的な妥協案として、清朝は二つの漢字の順序を入れ替えた「越南」という国号を提案し、阮王朝もこれを受け入れました。
これにより、「南に広がる越の国」というニュアンスから、「(中国から見て)越の地の南にある国」という、より中国中心的な視点に基づいた国名に落ち着いたのです。
このように、ベトナムの漢字表記は、独立国家としてのアイデンティティを確立しようとするベトナムと、地域の覇権を維持したい大国中国との力関係の中で生まれた、複雑な歴史を反映したものなのです。
「越」が使われる熟語の具体例
前述の通り、ベトナムを表す「越」という漢字は、外交や報道などのフォーマルな場面を中心に、様々な熟語として使われています。日本国内でよく目にする具体的な例としては、以下のようなものが挙げられます。
- 訪越(ほうえつ):要人のベトナム訪問を指す際に使われます。「首相がベトナムを公式訪問」よりも「首相、訪越」の方が、ニュースの見出しとして簡潔になります。
- 日越(にちえつ):日本とベトナムの二国間関係を示します。「日越経済連携協定」や「日越文化交流年」など、政治・経済・文化の幅広い分野で用いられます。
- 中越(ちゅうえつ):中国とベトナムの関係を指します。歴史的な「中越紛争」だけでなく、現代における「中越国境貿易」など、複雑な関係性を示す文脈で登場します。
- 渡越(とえつ):一般的にベトナムへ渡航することを意味し、ビジネスや観光に関する文脈で使われることがあります。
また、故事成語で有名な「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」の「越」も、実はベトナムの「越」と無関係ではありません。この言葉の「越」は、古代中国の春秋時代に現在の浙江省あたりに存在した国の名前です。
歴史的に、この地域に住んでいた人々を含む広範な民族が「百越(ひゃくえつ)」と呼ばれており、現在のベトナム人の祖先もその一部であったと考えられています。
彼らが南下して現在の地に定住したという歴史的背景から、古代の国名と現代のベトナムは「越」という一つの漢字で繋がっているのです。
ベトナム主要都市の漢字表記一覧

ベトナムの国名だけでなく、主要な都市にも漢字表記が存在します。これらは歴史的に漢字が使われていた時代の名残であり、それぞれの都市の地理的な特徴や歴史を反映しています。
ローマ字表記 | 漢字表記 | 日本語表記 | 備考 |
Hà Nội | 河内 | ハノイ | 首都。紅河とトーリック川に囲まれていたことに由来します。 |
TP. Hồ Chí Minh | 胡志明 | ホーチミン | 旧称はサイゴン(柴棍)。ベトナム独立の父、ホー・チ・ミンに由来します。 |
Đà Nẵng | 沱灢 | ダナン | 中部ベトナム最大の都市です。 |
Hội An | 会安 | ホイアン | かつて日本人街も栄えた歴史的な貿易港です。 |
これらの漢字表記が現在のベトナムで日常的に使われることはありませんが、歴史的建造物の名前や書道などで目にすることができます。
ベトナムの漢字一文字と現代の文字事情
- 現在ベトナムで漢字は使われている?
- 漢字からローマ字への歴史的変遷
- 言葉の中に残る漢字文化「漢越語」
- 日本語と発音が似ている漢越語の例
- 漢越語から見る漢字文化の影響
- まとめ:ベトナムの漢字一文字「越」の知識
現在ベトナムで漢字は使われている?

現在のベトナムでは、公的な文書から街中の看板に至るまで、日常生活において漢字が使われることはほとんどありません。
公式な文字は「Chữ Quốc Ngữ(チュ・クオック・グー)」と呼ばれる、ローマ字を基礎とした独自のアルファベット表記であり、教育もすべてこの文字で行われます。
そのため、現代の一般のベトナム人の多くは漢字を読むことができず、漢字は外国語という認識に近いものとなっています。
しかし、漢字文化の痕跡が完全に消滅したわけではありません。例えば、ハノイの文廟(孔子廟)にある科挙合格者の名を刻んだ石碑や、各地の寺院、歴史的建造物に掲げられている扁額(へんがく)には、今でも漢字が荘厳な姿で残されています。
また、旧正月(テト)の時期には、幸福や長寿を願う言葉が書かれた漢字の書道作品が飾られるなど、伝統文化の中に深く根付いています。
近年、一部の知識人の間では、自国の歴史や文学を深く理解するために、中学校や高校で漢字教育を復活させるべきだという声も上がっています。ただ、学習負担の増加などを懸念する意見もあり、国民的な議論にまでは至っていないのが現状です。
漢字からローマ字への歴史的変遷

ベトナムの文字が漢字からローマ字へと移行した背景には、長く複雑な歴史があります。
北属期とチュノムの誕生
紀元前から約1000年間にわたり、ベトナム北部は中国の支配下にありました。この「北属期」と呼ばれる時代に、行政や教育の場で漢字が公用文字として定着します。
やがて、ベトナム独自の言葉を表記するために、漢字を組み合わせて作られた「Chữ Nôm(チュノム)」という文字が発明されました。しかし、チュノムは非常に複雑であったため、一部の知識層にしか普及しませんでした。
クオック・グーの普及
17世紀になると、ベトナムで布教活動を行っていたヨーロッパの宣教師たちが、ベトナム語の発音をローマ字で表記する方法を考案します。
これが現在の公用文字である「クオック・グー」の原型となりました。その後、19世紀後半にベトナムがフランスの植民地になると、フランス政庁は統治の効率化のためにクオック・グーの普及を推進しました。
クオック・グーは学習が容易であったため、国民の識字率向上に大きく貢献し、1945年の独立後、正式にベトナムの公式文字として採用されたのです。
言葉の中に残る漢字文化「漢越語」
文字としての漢字は使われなくなりましたが、ベトナムの言葉の中には漢字に由来する単語が数多く残されています。これを「漢越語(かんえつご)」と呼びます。
漢越語は、ベトナム語の語彙全体の3割から6割を占めるとも言われており、特に学術用語や政治経済に関する言葉、抽象的な概念を表す言葉の多くが漢越語です。これは、かつて日本が西洋の概念を翻訳するために多くの和製漢語を作り出したのと似ています。
表記はローマ字のクオック・グーですが、その一つ一つの単語は漢字の意味と深く結びついており、ベトナム語が漢字文化圏に属していたことを示す力強い証拠となっています。
日本語と発音が似ている漢越語の例

漢越語の中には、日本語の音読みと発音がよく似ているものがたくさんあります。 これは、どちらの言語も古代中国の漢字音をルーツにしているためです。
もちろん、ベトナム語特有の声調(音の高低)があるため、日本語の読み方をそのまま真似しても通じるわけではありませんが、日本人学習者にとっては単語の意味を推測しやすく、親しみが持てる要素です。
日本語 | 日本語読み | ベトナム語(漢越語) |
注意 | ちゅうい | chú ý(チュー イー) |
同意 | どうい | đồng ý(ドン イー) |
意見 | いけん | ý kiến(イー キン) |
管理 | かんり | quản lý(クアン リー) |
感動 | かんどう | cảm động(カム ドン) |
結婚 | けっこん | kết hôn(ケッ ホン) |
公安 | こうあん | công an(コン アン) |
このように、発音が似ている単語を知ることで、ベトナム語の学習がより面白くなるかもしれません。
漢越語から見る漢字文化の影響

漢越語の存在は、現代ベトナムにおける漢字文化の重要性を示しています。 文字の形は失われたものの、言葉の根底には漢字が持つ意味や概念が深く息づいています。
実際に、ベトナム人の姓名や地名のほとんどが漢越語で構成されており、それらは彼らの文化的アイデンティティと密接に結びついています。
例えば、ベトナムで最も多い姓「Nguyễn(グエン)」は漢字で「阮」と書き、歴史的な王朝の名前に由来します。同様に、「Trần(チャン)」は「陳」、「Lê(レ)」は「黎」であり、これらもまた歴代王朝と関わりの深い姓です。
地名にしても、「Hà Nội(ハノイ)」が「河内」であるように、その土地の地理的特徴を示しています。また、世界遺産の街「Hội An(ホイアン)」は「会安」と書き、「人々が安らかに集う場所」という平和への願いが込められていると解釈できます。
人物名に目を向ければ、「Phạm Nhật Vượng(ファム・ニャット・ヴオン)」の「范日旺」という名前には、「日本のように日々(日)栄える(旺)」といった意味を読み取ることができ、親が子に込めた願いや価値観が反映されています。
このように、ローマ字表記の裏に隠された漢字の意味を解き明かすことは、ベトナムの歴史や文化、人々の精神性をより深く理解するための鍵となります。
かつて使われていた漢字と漢越語の知識は、現代ベトナムを多角的に見るための非常に興味深い視点を提供してくれるのです。
まとめ:ベトナムの漢字一文字「越」の知識
この記事では、ベトナムを漢字一文字でどう表現するのか、そして文字にまつわる歴史や文化について解説しました。最後に、本記事の要点をまとめます。
✓ ベトナムを漢字一文字で表すと「越」
✓ 正式な漢字表記は「越南」
✓ 「越南」はベトナム語の「Việt Nam」に由来
✓ 国号は清朝時代に歴史的経緯で決定された
✓ 当初は「南越」を希望したが認められなかった
✓ 「訪越」や「日越関係」のように略称で使われる
✓ ハノイは「河内」、ホーチミンは「胡志明」と書く
✓ 現代のベトナムでは日常生活で漢字は使われない
✓ 現在の公用文字はローマ字表記の「クオック・グー」
✓ フランス植民地時代にクオック・グーが普及した
✓ 漢字文化の影響は「漢越語」として残っている
✓ ベトナム語の語彙の約3~6割が漢越語といわれる
✓ 日本語と発音が似ている漢越語も多い
✓ 「注意(chú ý)」や「結婚(kết hôn)」などがその例
✓ 漢越語はベトナムの歴史と文化を物語っている