
マレーシアへの旅行や移住を考えるとき、最初に気になるのが言葉の壁ですよね。「マレーシアの母国語は何語なのか」「英語は通じるのか」、それとも「現地の言葉を覚える必要があるのか」、不安に思う方も多いのではないでしょうか。
実はこの国、憲法で定められた国語としてのマレー語と、それぞれの民族が家庭で話す母国語、そしてビジネスや生活の共通語としての英語が複雑に入り混じった、世界でも珍しい言語環境を持っています。
私自身、初めてクアラルンプールの空港に降り立ったとき、マレー語のアナウンス、中国語の会話、そして流暢な英語が飛び交うその音の洪水量に圧倒されつつも、なんとかなる英語環境に深く安心した覚えがあります。
今回は、そんなマレーシアのユニークでエキサイティングな言語事情について、現地の実情や私自身の体験を交えながら、どこよりも詳しく解説していきます。
記事のポイント
- マレー語が国語と定められている法的な理由と社会的な背景
- ビジネスや観光、日常生活で事実上の公用語として機能する英語の実力
- 民族ごとに全く異なる母国語の種類と、家庭内でのリアルな使用状況
- 日本人がマレーシアでストレスなく快適に過ごすための実践的な言語戦略
マレーシアの母国語と国語の違いとは

「マレーシアの言葉」と一口に言っても、そこには「国としての建前(政治的・法的枠組み)」と「生活の実感(社会的・経済的実態)」という二つの側面がはっきりと存在します。ここではまず、この国が抱えるカラフルで重層的な言語のモザイク模様について、少し掘り下げて見ていきましょう。
公用語の定義と英語の重要な位置づけ
まず押さえておきたいのが、法律上の厳格な定義です。マレーシア連邦憲法第152条では、明確に「国語(National Language)はマレー語(Bahasa Melayu)である」と規定されています。
これは単なる象徴ではなく、公文書の作成、裁判所での手続き、国会での審議といった連邦政府および州政府の「公式な目的」においては、原則としてマレー語の使用が義務付けられていることを意味します。街で見かける政府機関の看板や通達がすべてマレー語で書かれているのは、この憲法条項に基づいているのです。
しかし、ここで非常に興味深いのが実社会での柔軟な運用です。憲法には「公式な目的以外で他の言語を使用することを禁止したり妨げたりしてはならない」という但し書きが存在します。これがマレーシアにおける多言語社会の自由と多様性を保障しています。そして、この隙間を埋めるように、圧倒的な存在感を放っているのが英語です。
マレーシアにおいて英語は、教育制度上は「第二言語(Second Language)」という位置づけですが、実際には民間企業のビジネス、私立大学などの高等教育、多国籍企業でのコミュニケーションにおける「事実上の公用語(準公用語)」として機能しています。
特に首都クアラルンプール(KL)やペナン島などの都市部においては、英語さえ話せれば生活に困ることはほぼありません。銀行口座の開設から不動産の賃貸契約、病院での診察、そして配車アプリGrabでのドライバーとの会話に至るまで、すべて英語で完結可能です。
私たちが現地で感じる「言葉の壁」の低さは、国語としてのマレー語の尊厳を守りつつ、実利的なツールとして英語を使いこなす、この独特な二重構造のおかげなんですね。
民族構成から見る言語の使用割合

マレーシアの人口は約3,410万人(2024年推計)に達していますが、その内訳を知ると言語環境の複雑さがより鮮明に見えてきます。
マレーシア統計局の最新データによると、市民の民族構成は、マレー系および先住民族を含む「ブミプトラ(土地の子)」が約70.4%、中華系(華人)が約22.4%、インド系が約6.5%、そしてその他が0.7%となっています。
そして、マレーシアでは「民族=母語」という図式が色濃く残っています。マレー系住民は家庭でマレー語を話し、中華系は中国語諸方言やマンダリンを、インド系はタミル語などを話します。
| 民族グループ | 主な母国語 | 人口比率(2024年) | 特徴 |
|---|---|---|---|
| ブミプトラ(マレー系・先住民) | マレー語、イバン語、カダザンドゥスン語など | 約70.4% | 政治・行政の中心。マレー語は彼らのアイデンティティそのもの。 |
| 中華系(華人) | マンダリン、福建語、広東語、客家語など | 約22.4% | 経済活動の中心。ビジネスでは英語とマンダリンを巧みに使い分ける。 |
| インド系 | タミル語、マラヤーラム語、パンジャーブ語など | 約6.5% | 法曹界や医療分野で活躍。英語能力が非常に高い層が多い。 |
(出典:Department of Statistics Malaysia "Current Population Estimates 2024")
このように、それぞれの民族が自分のコミュニティ内(家族や同郷の友人)では「母国語」を使い、異なる民族と話すとき(異文化間コミュニケーション)は共通語である「マレー語」か「英語」を使うという、見事な使い分け(コード・スイッチング)が日常的に行われています。
街中のカフェで、隣の席から英語、マレー語、中国語がちゃんぽんで聞こえてくるのは、多民族国家マレーシアならではの活気ある光景ですね。
華人社会における中国語と言葉の壁
人口の約4分の1を占める華人社会の言語事情は、さらに複雑です。彼らの祖先は、19世紀から20世紀初頭にかけて中国南部の様々な地域から渡ってきたため、福建語、広東語、客家語、潮州語といった、相互に通じにくい「方言」がそれぞれの母語でした。
現在でも、クアラルンプールやイポーの華人社会では広東語が幅を利かせており、香港映画のような会話が日常的に聞こえてきます。一方、ペナン島やクラン、ジョホールの一部では福建語が支配的で、台湾語に近い響きを持っています。
しかし、ここ30年ほどで大きな変化が起きています。それは「標準中国語(マンダリン/華語)」への一極集中です。華人の90%以上が子供を通わせる華文小学校での教育がマンダリンで行われ、経済大国となった中国の影響もあり、今の若者世代はマンダリンを共通語として話す傾向が強まっています。
このシフトにより、祖父母は方言しか話せず、孫はマンダリンと英語しか話せないため、家庭内でのコミュニケーションが難しくなるという現象も起きています。
英語は通じる?訛りとマングリッシュ

「英語が通じると聞いて来たけど、なんか聞き取れない…」これは多くの日本人駐在員や旅行者が、到着直後に最初にぶつかる壁です。マレーシアの英語は、現地の文法や語彙が混ざり合った「マングリッシュ(Manglish)」として独自の進化を遂げています。
マングリッシュの特徴は、be動詞や時制が省略されることが多く、文末には「~lah(ラ:強調、断定)」や「~meh(メ:懐疑)」といった独特の助詞(Particles)がつきます。最初は戸惑うかもしれませんが、これらは親しみを込めたり、ニュアンスを調整したりするための重要な潤滑油なのです。
覚えておきたいマングリッシュの例
- "Can." / "Cannot."(キャン / キャノッ): 最もよく使う言葉。「できます」「いいよ」は"Can."の一言で済みます。逆に「無理」「ダメ」は"Cannot."。疑問形は"Can?"と語尾を上げるだけです。
- "Makan already?"(マカン オールレディ?): 直訳すると「もう食べた?」。これは食事の誘いではなく、「元気?」という挨拶代わりによく使われます。"Makan"はマレー語で「食べる」。
- "OK lah."(オッケー ラ):いいよ、まあいいよ。 ニュアンスを和らげる魔法の言葉です。
慣れてくると、このマングリッシュのリズムが非常に合理的で、堅苦しい文法を気にせずに話せるため、日本人にとっても実は話しやすい英語環境であることに気づくはずです。
多様な言語が共存する歴史的背景
なぜこれほど多様な言語が、共存しているのでしょうか。その答えは、マレー半島の歴史にあります。マレー語は古くから、マラッカ海峡を中心とする交易の共通語として機能してきました。文法がシンプルなマレー語は、誰にとっても学びやすく、使いやすい言葉だったのです。
その後、イギリス植民地時代に、マレー人は農業や公務員、華人は鉱山や商業、インド人はゴム農園というように、民族ごとに居住区や職業、そして教育言語を分けました。これが現代まで続く「民族ごとの母語維持」の土台となりました。一方で、英語が行政や教育の言語として導入されました。
1957年の独立後、新生国家マレーシアは、国としてのまとまり(National Unity)を作るためにマレー語を唯一の「国語」と定め、国民統合の象徴としました。
しかし同時に、経済発展と国際競争力を維持するために英語を手放さず、また各民族の母語教育も維持する道を選びました。この絶妙なバランス感覚こそが、今のマレーシアの活気と、外国人を寛容に受け入れる社会風土を支えているのだと思います。
マレーシアの母国語事情と国語の重要性

ここまではマレーシア社会全体の大きな仕組みを見てきましたが、ここからは私たち日本人が実際にマレーシアで生活やビジネスをする際、どう言語と向き合えばいいのか、より実践的でパーソナルな視点でお話しします。
マレーシア語の挨拶は簡単で覚えやすい
「英語で生活できるなら、マレー語は覚えなくてもいいのでは?」と思うかもしれません。確かに生活は可能です。
しかし、現地の言葉であるマレー語を少しでも(片言でも!)話せると、相手との距離が劇的に縮まり、現地の人々の表情が一瞬で柔らかくなるのを体験できるはずです。嬉しいことに、マレー語は日本人にとって「世界で最も習得しやすい言語の一つ」と言われています。
その理由はシンプルです。第一に、文字はアルファベットが公式な表記として採用されています。第二に、母音が日本語とほぼ同じで、カタカナ読みでそのまま通じます。第三に、英語のような動詞の活用や、名詞の性、冠詞といった複雑なルールが一切ありません。
まずは、毎日の挨拶から始めてみるのをおすすめします。マレーシアの人々は挨拶をとても大切にします。
- Selamat Pagi(スラマッ パギ):おはよう ※朝の清々しさを共有する言葉です。
- Selamat Tengahari(スラマッ トゥンガハリ):こんにちは(正午~14時頃)
- Terima Kasih(テリマ カシ):ありがとう ※直訳すると「愛を受け取る」という意味。とても素敵な言葉ですよね。
- Sama-sama(サマ サマ):どういたしまして ※「お互い様」という響きで覚えやすいです。
- Apa khabar?(アパ カバル?):お元気ですか? ※これを聞かれたら、"Khabar baik"(カバル バイッ:元気です)と返しましょう。
お店で会計の後に「Thank you」と言う代わりに、笑顔で「Terima Kasih」と添えてみてください。店員さんの対応が驚くほど優しくなることも珍しくありませんよ。
インドネシア語とマレー語の明確な違い
学習を始めると、よく「マレーシア語とインドネシア語は同じですか?」「インドネシア語の教材を使ってもいいですか?」という質問にぶつかります。
言語学的には、両者は同じ「ムラユ語」から派生した兄弟言語であり、日常会話レベルであれば6~7割程度は相互に理解可能です。しかし、実用面では無視できない差異があります。
大きな要因は、植民地時代の宗主国の影響です。マレーシアは英語からの借用語が多く(例:Bus, Taxi)、インドネシアはオランダ語からの借用語が多いのです。例えば「オフィス」は、マレーシアでは英語由来の「Ofis」や「Pejabat」を使いますが、インドネシアではオランダ語由来の「Kantor」と言います。
ビジネス文書や翻訳においては、これらは明確に別言語として扱われます。「似ているから」といって混同して使うと、相手に違和感を与えたり、プロフェッショナルさを疑われたりする可能性があるので気をつけましょう。
日本人にとっての言語習得の難易度

先ほど「習得しやすい」と言いましたが、もう少し深掘りしてみましょう。
まず、日本人にとってマレー語のハードルが低いのは、母音の構造が日本語に近い(a, i, u, e, o)からです。英語のように複雑な発音記号を覚える必要がなく、書いてある通りに読めば通じます。
次に、時制の表現。英語では動詞を変化させますが、マレー語では 「昨日」「明日」といった単語を添えるだけです。
また、複数形もシンプルで、単語を繰り返すだけです。例えば "Orang"(人)の複数形は "Orang-orang"(人々)です。このリズム感は、日本語の「人々」「山々」にも通じるものがあり、日本人学習者にとっては直感的に理解しやすいポイントといえるでしょう。
英語学習で挫折した経験がある方でも、マレー語ならパズルを組み合わせるような感覚で、楽しく続けられるかもしれません。
教育現場における英語と言語政策

もしお子様連れでの移住を考えているなら、この国の教育言語(Medium of Instruction)の問題は避けて通れない、極めて重要なテーマです。マレーシアの公立学校システムは、使われる言語によって大きく3つに分かれています。
- 国民学校(Sekolah Kebangsaan - SK): 言語はマレー語。マレー系児童が主体ですが、カリキュラムは標準的で、政府の予算配分も最も手厚いです。
- 国民型華文学校(Sekolah Jenis Kebangsaan Cina - SJKC): 言語はマンダリン(中国語)。算数や理科の教育水準が高いと評価されており、近年ではマレー系やインド系、そして日本人の子供が通うケースも増えています。
- 国民型タミル語学校(Sekolah Jenis Kebangsaan Tamil - SJKT): 言語はタミル語。インド系コミュニティの母語維持に貢献しています。
さらに、私立のインターナショナルスクールでは、全科目が英語で教えられます。ここで注意が必要なのは、政策の揺らぎです。かつて公立校でも算数・理科を英語で教える試みが行われましたが、国語擁護派の反対などで廃止。現在は英語授業を認める二言語プログラム(DLP)として一部復活しています。
どの学校を選ぶかによって、お子様が身につける「第一言語(思考の言語)」が決まってしまいます。英語力を重視してインターか、中国語も身につけさせたいからSJKCか、ローカルに深く溶け込むならSKか、慎重に検討する必要があります。
移住や留学生活で必要な言語スキル
では、結局のところ、日本人がマレーシアで暮らすにはどれくらいの語学力が必要なのでしょうか。
結論から言うと、「一般的な生活を送るだけなら、中学校レベルの英語力で十分」です。ショッピングモールでの買い物、病院の受付、コンドミニアムの契約、公共料金の支払いなど、日本人が関わる場面の95%以上は英語で完結します。
向こうもノン・ネイティブ(第二言語話者)なので、完璧な文法や発音を求めてくることはありません。単語を並べるだけでも、意思は通じます。
しかし、もしあなたが「もっと深く現地の文化を知りたい」「ローカルの友人をたくさん作りたい」「ビジネスで一歩踏み込んだ信頼関係を築きたい」と望むなら、マレー語の習得は強力な武器になります。
例えば、地方都市への旅行や、ローカルな屋台(ホーカー)、そして移民局(イミグレーション)や警察などの公的機関との手続きにおいては、マレー語ができると相手の態度が明らかに軟化し、手続きがスムーズに進むことがあります。
マレーシアの母国語と国語の知識まとめ
マレーシアの言語環境は、一見すると複雑でカオスに見えるかもしれません。国語であるマレー語、経済語である英語、そして各民族の母語である中国語やタミル語。しかし、それは「違い」を排除せず、認め合いながら共存してきたこの国の寛容さと豊かさの表れでもあります。
この記事の重要なポイントをまとめます。
✓ 憲法上の「国語」はマレー語だが、ビジネスや都市部の生活における事実上の公用語(準公用語)は英語である。
✓ 首都圏や観光地では英語が広く通じるため、中学校レベルの英語力があれば生活に困ることはほぼない。
✓ マレー系はマレー語、中華系はマンダリン(標準中国語)や方言、インド系はタミル語と、民族ごとに異なる母語を持ち、相手に合わせて言語を使い分けている。
✓ マレー語は日本人にとって発音・文法ともに習得しやすく、片言でも話すことで現地の人々(特に公的機関や地方)との信頼関係を劇的に深めることができる。
✓ 語尾に「lah」がついたり文法が簡略化されたりする現地独特の英語「マングリッシュ」は、多民族間をつなぐ潤滑油として機能している。
「マレーシアの母国語は一つではない」。この事実を知り、その多様性を楽しむ心の余裕を持つだけで、あなたのマレーシア滞在はより彩り豊かで、深みのあるものになるはずです。ぜひ、街中に溢れる多様な言葉の響き(シンフォニー)に耳を傾けてみてくださいね。